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2016年5月28日開催 第17回 がん診療アップデート 開催レポート

垣添 忠生氏の講演(2)

妻のがん
2つ目のお話し、妻の場合・私の場合です。
妻は若い頃から膠原病の一種SLEという難病を持ってましてステロイドを随分飲んでいたのですが、そのうち声がかれてきてよく調べたら甲状腺がんが見つかって手術で治しました。それから肺の腺がんが端っこの方に見つかってこれも手術で治しました。

甲状腺がんと肺の腺がんは手術で治しましたが3つ目のがんが出てきました。甲状腺がんと肺の腺がんのフォローアップのために写真を撮っておりましたらたまたま右の下葉に4mmの影が見つかりました。半年後には6mmぐらいになりこれはがんに間違いないということになり外科医と放射線医の同席の元で議論してもらいましたら、いくら小さくても右の下葉の真ん中に出来てますから手術をすれば下葉切除になる、場合によっては酸素ボンベを引っ張らなくてはいけなくなるかも知れないということで困ったなとなりました。そこで陽子線治療をおこなったところ影が完全に消失しました。
しかしわずか半年後に右肺門部にリンパ節転移1個が見つかり詳しく調べると小細胞肺がんでした。私は肺がんの専門ではないですが肺がんの中で小細胞肺がんはタチが悪いというのはよく知っていましたから心の中では暗たんとしましたが、妻に対しては「転移が出たといっても1個だからなんとかなる。」と化学療法を受けさせました。

当時最強といわれていたシスプラチンとエトポシドを3月・4月・5月・6月と月に1回づつやって最後の7月には肺門部リンパ節に普通の放射線治療をしました。普通の放射線治療は陽子線治療より少し線量集中線が落ちますので周りに放射線肺炎が起きて白い影の中にリンパ節が埋まってしまって分からなくなりますので3ヶ月後に判断をするということで退院してきました。10月にCT・MRI・PET検査をしました。私も妻も完全に治ったと思っていたのにその結果は、多発性転移、脳転移・肝転移・骨転移・腎転移を起こしていました。その画像診断の結果を聞いた瞬間、私は妻の命は長くて三ヶ月だなと思いました。私も妻にその通り話しましたが、その夜担当の先生が画像を全部持ってきて説明を受けたらやはりそういうことで、抗がん剤治療しかないですねということになり前とは違う薬を使うということに妻も承知しましした。

2種類の薬を使ったのですがどちらもほとんど効かず副作用がかなり酷く、髪が抜けたり口内炎は痛み止めを使わないとお茶を飲むのも辛い程で可哀想な思いをさせたなと思いました。
それでも3回の入院の内一回目はまだ元気で週末は外泊をしてたのですが、家に帰るとすぐに引き出しの整理なんかをはじめて私にそれを手伝わせるんですよ。折角家に帰ったんだからゆっくりしたらいいのにと思ったのですがそれを真剣にやってるので「これはもしかしてもののありかを私に教えてるのかも知れないな。」と思いました。

最後に外泊が出来た11月半ば、家に帰る前に洋服店で二着洋服を買いました。新しい服を買うといつも妻は玄関の大きな鏡の前でそれを試着して帽子をかぶったりハンドバック提げたり靴まで履いてファッションショーと称してやるのですが、体調がよくないはずなのに楽しげにそれをやってる姿を見ていたら、もしかして死に装束を選んでるのかなと思って、私はそのうち特に彼女が気に入った銀ねずみ色のパンタロンスーツと明るいブラウスをすぐ出せるところにしまっておきました。
妻との別れ

それから外泊ができなくなってどんどん悪くなって12月になったらほとんど寝たきりになったのですが、妻は自分の命が長くて三ヶ月と承知してましたから家で死にたいと繰り返し言うようになりました。

その年の12月28日から翌年1月6日までが年末年始の休みになったのですが、病院に対しては外泊届けを出して帰りましたが、私の妻も家に死ぬために帰るということで、病院からたくさんの薬や医療器具を抱えて車で連れて一ヶ月半ぶりに家に帰りました。その時は私が準備した鍋料理を本当に美味しそうに食べて、口内炎や食道炎で食べられないと思っていたのですがあれは奇跡だったのでしょうか。割と大きめのお茶碗に二杯「美味しい美味しい」と言って「家っていうのはこうでなくっちゃ、こうでなくっちゃ。」と何度もニコニコして嬉しそうにしてました。

でもその翌日29日からだんだんと意識が切れ切れになって30日の午後からは過呼吸と無呼吸を繰り返す様になり、12月31日は朝から完全な昏睡状態で、午後からは激しい呼吸困難が出てきまして、私が点滴の量を半分に減らしたり利尿剤を打ったり酸素の量を増やしたりいろいろやるのですがどうにも収まらないんで、担当の先生に往診をお願いしたらそれが間に合わなくて。確か12月31日夕方6時15分、それまで完全に意識がなくてあえぐような激しい呼吸困難をしていた妻が、突然半身を起こして目をパチっと開けて私の方を向き直って…両目は確かに私を見て、自分の右手で私の左手をギュッと握った後、ガクッとあごが落ちて心肺停止になりました。

担当の先生の死亡診断時刻は夕方6時45分になってますが私の意識の中では妻は夕方6時15分に亡くなったと思っており、12月31日夕方6時15分というのは私にとって特別の日であり時間の様に思います。意識がなくなったまま亡くなっても不思議でない状態だったと思うのですが、最後の瞬間に言葉にはならなかったけど「ありがとう。」と言って亡くなってくれたんだと思ってまして、その心の通い合いがあったからこそ、私はその後三ヶ月から一年は大変辛い思いをしましたが、なんとかもつことができたのだと思います。
わずか4mmで発見したがんで一年半で亡くなってしまった2007年12月31日。
残された私のすさまじい生活。そしてグリーフワーク。
少し深刻な話になってしまいましたので気分を変えて頂くために、私の妻が30年ぐらい通っていました奥日光の自然の話をします。

5月の連休に行くと中禅寺湖の先に奥白根山が雪を被って見えます。毎朝4〜5時間かけてカヌーでこいでいきました。湖のこっち側に回りますと栃木県の県の花やしおつつじがピンクの花を咲かせています。
あそこは標高1300mぐらいですから5月の連休時分でしたら緑が出るか出ないかですが、毎朝同じコースをカヌーでこぐのですが奥日光に春が来たと告げる様な華やかな景色でした。
数日暖かい日が続くと冬枯れの山に華やかな木々がベールを脱ぐように華やかに音を立てる様に変わっていくその下をカヌーでこいでいくのは本当に気持ちが良い日々でした。

奥日光は紅葉の名所ですが数日の内に紅葉がどんどん散って緑のところが一晩で黄色や赤になっていく横をこいでいくなど、春と秋の日に繰り返し数日日光に訪れて自然と一体になって二人で楽しんでいました。

申しましたように妻は死期を理解してましたので、四日間でしたが私が全神経を集中して家で介護し家で看取りました。私たちは40年間結婚し子供はいなかったのですが、人生の伴走者を失うことは覚悟はしていましたが、生きているうちは看護師さんのケアを手伝えば体は温かいし毎日対話をできるわけです。でも亡くなって体が冷たくなって灰になって帰ってきて一切対話が出来ないっていうのは本当に辛かったです。
最初の三ヶ月というのは私はウイスキーとか40度ぐらいの焼酎とかをロックであおるように飲んで家にいるときはひたすら泣いて、本当にすさまじい生活をしました。

私たちは宗教はなかったのですが、妻の両親の菩提寺がすぐそばにあってそこの住職さんにお会いしたら、仏教には七日毎に大事な行事があって、初七日・四十九日・百箇日と丁度三ヶ月です。残された人は三ヶ月かかってようやくその方が亡くなったのだということを得心する大事な機会だからおやりなさいということで言われて、百箇日法要は親戚の人に来てもらってやりました。そのころから私も「こんな酒浸りで泣いてばっかりの生活をしていていいのだろうか。」というふうに思い始めて、最初は死ねないから生きているという感じだったんですが、少し思い直して、腕立て伏せ、腹筋、背筋をやりはじめて体の方がしっかりしてくると気持ちも少し前向きになり少し積極的に生きられるようになりました。つまりグリーフワークというのを自分でやったんです。

山やカヌーもまた再開し、今までやったことのない居合いで悲しみを癒やそうとし、執筆をしました。そういうことでなんとか生き返って来たわけですが、いい山の仲間も見つかって私が冬山を登るなんて夢にも思わなかったんですけど10本爪アイゼン履いてピッケル持って八ヶ岳の硫黄岳に登ったのですが、山登る時は常にザックの一番上にビニール袋に入れて持って行くんですが上に行ったときはその写真を手で持って360度の景色を妻に見せるんです。
カヌーは妻が元気なときは釧路川を一緒に下ったことがあるのですが、渚滑川という紋別の川にカヌーに行きまして全日台風が通過して荒れたホワイトウォーターの川を危険を冒して下っているときは完全に悲しみを忘れられるのです。

私は剣道をやったことはなかったのですが居合いというのは集中力を鍛錬するということでかねてから関心があったので三菱の居合道場に入れてもらって週二回稽古しています。この写真はいかにも斬っているように見えますがこれはとても人を斬っているような目つきではないですね。<会場笑い声>
今私は三段なのですが今度四段を受けるのですが、三段になったときから本身(真剣)でやるのですが自分の体を傷つける可能性があるので一層緊張して腕が上がるといわれていてそれで稽古をやっているのですが、それで2時間汗びっしょりになって稽古している間は悲しみを忘れられます。

今では年末年始は、酒をむちゃくちゃ飲むということはしませんし、おせち料理もちゃんと食べられるようになりました。散歩することしかすることがないので時間をもてあましてふっと思いついて、妻の病歴だとか私の苦しみとかを文章で書き始めました。書くということが私の心の底の深い苦しみや悲しみを表出する行為だと分かってます。これはまさにカウンセラーに話を聞いてもらうってのはこういう効果があるかも知れないと思いました。どんどん書いて高校の同級生の嵐山光三郎という物書きが居て彼のところに送ったら「垣添、これ充分ものになるぞ。こういう書は品の良い出版社じゃないといけない。」と言われ新潮社を紹介され「妻を看取る日」という本になりました。

それで私の人生が一変しました。全国の見知らぬ方からたくさん手紙や葉書を頂きました。妻を亡くして一年経った二年経ったとか、あるいは奥さんやご主人亡くして半年とか一年経ったとか、がん患者さんから「がんの専門家でもこれだけ苦しいんだったら私ももうちょっと頑張ってみようと思う。」とかポジティブなご意見を頂いたり、取材も受けましたし、この内容はNHKハイビジョンで私の役を國村隼さんという俳優がやって妻の役を市毛良枝さんがやってドラマ化されたり、本当に人生が一変して今もなおこうやって講演に呼ばれることがあります。

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