原 千晶さんの講演(2)このページを印刷する - 原 千晶さんの講演(2)

2014年5月17日開催 第15回 がん診療アップデート がんの予防・早期発見 開催レポート
  がん診療アップデート会場
 開講の挨拶
 細野 眞 先生の講演
 神戸 章 先生の講演
 堀内 哲也 先生の講演
 陰山 麻美子 先生の講演
 原 千晶さんの講演(1)
 原 千晶さんの講演(2)
 原 千晶さんの講演(3)
 閉講の挨拶
 
原 千晶さんの講演(2)


平穏としていた過信の日々から再発まで

それから二年間はまじめに毎月毎月仕事の合間をぬって病院に通っていました。やはり「もうあなた来なくて大丈夫だから。」という大きな太鼓判は押してもらえないんですが、行くたびに「今回も大丈夫だったよ。また来月来てくださいね。」と言われると、太鼓判ではないんですが小さい判子を押してもらえるような感覚でその小さい判子を一年間で12回、2年で24回貯まってきますと何か自分の中で過信に変わっていくんですね。

現に体調は良かったですし悩んでいたお腹の痛みとかおりものの異常とか出血とかはほとんどなくなっていたので「あーよかった。やっぱり子宮取らなくてよかった。」ということで自分では納得していました。しかし三年目ぐらいに仕事か何かで一度行かなかった時があって「行ってないな。」と頭で思っているんですが「まあいいか。」と思っていたら次の月も行かなくなるんです。それから結局病院に行かなくなってしまったんです。
最初に受けた子宮頸がんの手術は2005年の2月だったんですがそれから5年という月日が過ぎればがんという病気から無罪放免されるんじゃないかと、こんな馬鹿な私でも思っていました。
とにかくそれをあと一年、あと半年、というふうに指折り数えていました。そのあと三ヶ月と思っていた2009年の12月でした。

生理は毎月きちんと来るんですが、夜寝るときはおむつタイプのナプキンをはかないと不安なぐらい経血の量が多くなってきていました。他にも、おりものが無色透明のサラサラとした尿漏れかなと思うぐらい水っぽいものが出てくるんです。その時私は35歳でしたので「年齢のせいかなあ。」と思いながら過ごしていました

そんなある朝、渋谷でドラマの撮影がありまして夕方まで空き時間ができたので一旦お家に帰ろうということになり、一人で車に乗りました。生理二日目ということでそろそろお腹が痛くなるかなということで鎮痛剤を飲みました。家に帰る頃には薬が効いてるだろうと思って車を走らせていたんですが、痛みが緩和されるどころかどんどん波が広がっていくように冷や汗が流れるぐらいものすごく痛みが強くなってきたので、車を路肩に止めてシートを倒していろんな楽になる姿勢を探してみましたけど痛みは楽になることはなく救急車を呼ぼうと考えましたが、当時つきあっていた彼(今の旦那さん)に電話をしたらたまたま近くを通ってるということで助けに来てくれてなんとか家まで戻り一時間ぐらい七転八倒していました。しかし夕方になりふっと楽になったので夕方からのお仕事はなんてない顔ででき夕方5時ぐらいに無事終えることができました。

その時は流石に病院に行かないとだめだなと思ったので一番最初に行ったレディースクリニックに電話を掛けて行きました。先生は覚えてくださってて仕事の現場から直接行きました。もしかしてまたがんになってしまったのかなあと頭には思いつつ、がんという自分の病気を臭い物にはフタをしろという風になかったことにして病院にも行かず放置して、5年目のテープを自分で勝手に切ろうと思っていたんです。

しかし、先生に診て頂いたら「子宮の入口にまたできものが出来ていますね。」と言われました。血の気が引く思いをしました。後悔と恐怖といろんな思いが交錯してパニック寸前でした。先生に「がんでしょうか?」と聞いてみたら「ここでは何とも言えませんがおそらくがんでしょうね。病院へはずっと通ってたんですよね?」と聞かれ「実はもう二年ぐらい行ってないんです。」と言いましたら、「とにかく一刻も早く大きい病院に行ってください。」と言われました。といっても途中で行かなくなった病院には気まずくて行きたくなかったので、東京にある別の大きな病院に紹介状を書いてもらって二日後に行きました。

「今なら子宮を取るだけで済むから。」という言葉がズドーンと

診察台で診てもらってる時にカーテン越しに先生が「わーダメだこりゃ。なんでこんなになるまで放っておいたの。なんで。」と言ったんです。その時は震えと涙が止まりませんでした。飛び上がるほど痛い内診を終えて先生から話を聞きました。先生は「なんでこんなになるまで放っておいたの。とにかく取った細胞を病理に回して浸潤度を調べますけど正直言って厳しいです。次は家族の方か信頼できる方と来てください。」といわれました。次の診察は一週間後だったのですが怖くて怖くて眠れませんでした。
その診察当日、彼(今の旦那さん)に来てもらったのですが、診察室へは一緒に入れませんでしたので私一人で聞きました。「あなたの今の状態を言うと子宮頸がんの腺がんになっています。病期はおそらく1Bの二期といわれる状態です。開けてみないとわかりませんが、周辺の臓器への浸潤はないかと思われますが、最悪詳しい検査をしていって浸潤があった場合は手術ができない可能性もあります。」といわれました。広汎子宮全摘出術という、子宮・卵巣・卵管・骨盤の中の多くのリンパ節を取るとても大きな5時間以上かかる手術が必要で、手術が終わって体が回復してから抗がん剤6クールが必要ということでした。

この時ここで、円錐切除の先生から言われた「今なら子宮を取るだけで済むから。」という言葉が心のど真ん中にズドーンと響きました。家に帰ってからもインターネットで広汎子宮全摘出術という手術がどういったものなのかを調べました。生殖器はすべて取り去って、リンパもたくさん取らなくてはいけないので排尿障害が出たり、神経が分断されることによってお手洗いに行きたいという感覚が失われたりなどの障害が残るかもわからない。お腹から下が浮腫んで戻らなくなるリンパ浮腫になる患者さんも多くいる。といった自分が想像していたよりもずっとずっといろんな恐怖がありました。

ここで北海道に住んでいる両親に何と言おうかと悩みました。母親とはたまに電話でやりとりをする度に「毎月きちんと検査に行っているの?」と聞かれ最初はお茶を濁していたんだけどだんだん母のそういう言葉に耳が痛くなってきてうるさいなあと思うようになっていました。だから10日間ぐらい言えませんでした。

先生からは急いで日程を決めましょうと言うことになり、2013年1月13日に手術室が空いているということでした。先生は「あなたがこれから受けようとする治療は決して一人で乗り越えられるものではない。心から信頼できるパートナーが必要です。若い女性が子宮や卵巣を失って相手のパートナーとの関係がうまくいかなくなり、結婚していても離婚するとかお付き合いしていても破局をしてしまうケースをたくさん見てきました。ただでさえ身も心もボロボロになってる患者さんにそんな思いをさせてくないんです。だから、あなたの治療に向き合ってくれる方がご両親でなくあなたの今のパートナー(彼氏)だった場合、その方を信頼できることが大事です。」と言いました。加えて「どちらの病院で治療を受けるにしても円錐切除をおこなった病院からカルテをもらってきてください。」ということで、元の主治医に二年半ぶりぐらいに恐る恐る電話を掛けたところ先生はすぐにいらっしゃいと受け入れてくれました。

そんなことがあったなか手術日が近づいてくるし、とにかく両親に言わないといけなかったので思い切って母に連絡しました。「またがんになっちゃったみたい。今度はちょっとまずいかも。」とボソッと言いました。「なんで!病院に行きなさいってあれほどいったじゃない!」と怒られたりするんじゃないかと想像していたのですが… 少し黙っていた母は「わかった。すぐ行くから。」と言いました。この人すごいなと思いつつ、ここまで大切に思ってくれる人をなんで私は傷つけてしまったのだろうと思いました。

手術から6クールの抗がん剤治療が終わるまで

手術を受けることを決意し精密検査をおこないました。その結果、子宮体部にもがんが見つかりました。子宮体がんでした。私はよく子宮がんとまとめて言っているのですが、子宮がんは子宮体部(子宮内膜)にできる子宮体がんと、子宮頸部の入口にできる子宮頸がんと2つに大きく分かれています。子宮頸がんというのはウイルスが原因だと言われていて、子宮体がんというのはホルモンが関係したり様々な原因だと言われています。私は子宮の内膜に類内膜腺がんといわれるタイプのがんができました。それが知らないうちにグングンと育っていって子宮の頸部に飛んでいましたし腸骨のリンパにも転移していました。最終的に子宮体がんのステージ3Cというびっくりする結果が術後知らされました。あまりこういう話はしたくないですが5年生存率は60%ちょっとなんですね。しかし正直に言うと30歳のあの時に子宮を取っておけばよかったとは思わなかったんです。30歳のあの時に子宮を取っていたらその後悔の方が大きくて乗り越えられなかったかも分からなかったからです。

手術から約三週間後、抗がん剤治療を始めました。子宮体がんによく使われるTC療法という療法をおこなうことになりました。
こうなってしまったことは、自分の中ではある種禊ぎとして納得できましたし、私の両親も経過を知っていたので納得して頂いていました。しかし彼(今の旦那さん)のご両親となると話は違います。彼は長男なんです。その時点ではまだ結婚もしてなかったんですが、ご両親に内孫の顔を見せてあげられないのが申し訳なくて。そんな私をどうご両親はお考えになるのか。そのことを考えると申し訳なくて涙が止まらなかったのです。でもいよいよ言っておかなくてはいけないということで、とうとう彼(今の旦那さん)が彼のご両親に伝えてくるよ、ということで行きました。

その結果「一番つらいのは彼女だよ。お腹を切って手術をして子宮を取ってつらい治療に立ち向かっていくのは彼女なんだから。子宮がなくなったからとか抗がん剤で髪が抜けたからだとか、そういったことで彼女を傷つけたり捨てることがあったら息子のおまえを許さないよ。」って言ってくれたそうです。その言葉を彼が私に伝えてくれたとき、私は一生分ワーっと泣きました。私の申し訳ないという気持ちに対してお父さんが楯になってくれました。今でもそのお父さんの言葉は私の宝物です。

6クールの抗がん剤治療が始まりました。一回目、気持ち悪くもならないし、こんなもの?と思いました。最近は医療技術も進んでいるんだなと感じました。それから二週間が過ぎ2回目が始まる前日、髪がごそっと抜けました。次第にまつげや眉毛も抜けました。最近はつけまつげやウィッグも発達していますし、つけ眉毛というものもあるらしいです。そんなことで脱毛とも付き合いました。一番つらかったのは胃腸障害でした。下痢と便秘を繰り返すことがありました。あと辛かったのは寝ているようでどこか覚醒している状態が続く睡眠障害です。

普通に呼吸ができて睡眠ができてというような、私たちが普段ごく当たり前におこなっていることが有り難いことだと感じました。
人間は細胞分裂を繰り返しながら体を保っている訳ですが、抗がん剤治療というのは、がん細胞の分裂を防ぐために良い細胞もやっつけてしまう部分もありますので、正しい新陳代謝が行われなくなる。そうすると、食べて飲んでちゃんと生きているんですが、どこか「これ私なのかなあ?」とピターっと自分の中で何か止まってしまったような、自分がここにいるけどもう一人の自分が空中で自分をジーっと見ているような、そんな奇妙で不思議な二度と経験したくない奇妙な感覚でした。その抗がん剤治療を6クールおこないました。2010年5月17日、丁度4年前の今日、抗がん剤治療が全部終わって病院の外に出てハーと空気を吸ったのを今でも思い出します。治療が終わってすっきりしたという気持ちもありましたが「私これからどうしたらいいんだろう?再発・転移ってこととこれからどうやって向き合っていけば良いんだろう?もし何かあったらどうしたらいいんだろう?」って不安な気持ちになりました。ただ抗がん剤で抜けた髪も半年もすれば随分伸びてきて2011年の2月ぐらいにはウィッグを取ってテレビに出ていました。それで私は2010年11月に結婚したということと、がんでしたということを公表させて頂きました。


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